英題「The Science of Being and Art of Living」
序論
本書『存在の科学と生きる技術』は、 古代インドのリシ(真理を見る人)たちが明らかにした 「悟り」に関する叡智をまとめたものです。 本書はこの叡智を西欧の科学の視点から解釈したものです。
本書では人生の成就とはどのようなものなのか、その哲学を示し、さらにどんな人でも実践でき、そして人生のすべての面を栄光化する一つの具体的な方法を提供しています。あらゆる問題の根本を見据え、あらゆる苦しみを根絶する一つの解決策を提供しているのです。
また本書は真理を求めてやまない人々の探究心に応えるために実際的なテーマを掲げています。さらにあらゆる人間が精神と物質生活とを調和させ、自分自身の内に神を見いだすことのできる一つの実際的技術の原則にも触れています。
「存在の科学」は実存の真理の探究を始めるにあたって、生命の表層の大まかなレベルから出発し、やがて精妙な体験レベルに入っていきます。しかし「存在の科学」は、最後にこの精妙な領域をも超越して、永遠の「存在」である超越界を直接体験するところまで到達します。
「存在の科学」は実際的な哲学であるといえるでしょう。「存在の科学」は他の科学と同様に理論的ですが、その応用面では哲学の思索よりもはるかに遠い地平の果てにまで達し、生命の至高の真実がどのようなものであるのかを悟らせてくれます。
※ここに「一つの具体的な方法」「一つの実際的技術」「その応用面」と表現されたもの、それが超越瞑想です。
個人が「存在」の純粋状態を直接体験できるようにする体系的な方法が超越瞑想です。それは想念の本源そのものに到達する方法です。想念の本源に到達したとき、現在意識は「存在」の純粋状態となります。
「存在の科学」は今までに知られてきたどの科学よりもはるかに価値のある科学です。なぜなら今までの科学は、その基盤を科学者の現在意識という意識の狭い領域に置かざるを得なかったのですが、研究者の意識レベルを最大限にまで高める超越瞑想によって、科学の各分野に偉大な発展の基礎が築かれることになるからです。のみならず、生命のあらゆる領域で「成就」が生きられるようになるでしょう。
この知識はすべて歴代の聖位シャンカラーチャーリヤの座に就かれた大聖スワミ・ブラーマナンダ・サラスワティ師から授けられたものです。この大師こそ私のあらゆる活動にインスピレーションを与えてくださる本源であり、導きの光です。
1963年1月12日 マハリシ・マヘーシュ・ヨーギー
★『超越瞑想』2,037円、電子書籍1,801円(マハリシ・マヘーシュ・ヨーギー著、マハリシ出版)は全国有名書店並びにネット通販にて販売中です。「☞マハリシ・アーユルヴェーダ・ショップ」からも購入できます。
第1章 科学的な真実
そして物理学者たちは、「素粒子」を構成するさらに微細な物質の状態を探ろうとしています。このように物理学の探求は、物質やエネルギーのいっそう精微な状態へと向けられているのです。 (※この文言は1963年に記されています。)
私たちはこの物質的世界を「相対界」、あるいは「実存の相対領域」と呼びます。そしてこの相対領域には、いくつかのエネルギー形態があり、エネルギーは物理の法則に従って、ある形態から別の形態へと永遠に変化を繰り返しています。
探求を続けるにつれて、物理学者たちは、どんなエネルギー形態よりもさらに微細で絶対的に安定した何らかのエネルギーの基本形が存在するのではないか、と考えるようになってきました。「相対界」は、この絶対のエネルギーのゆらぎとして生じているのであり、あらゆる形態の物理的エネルギーは、この内に隠れた、つまり被造界の内側にある最も微細、最も精微な領域さえも越えたところにある絶対のエネルギーの状態が外(相対界)に現れたものであるという理論です。
この絶対の状態が、あらゆるエネルギー、そして物質の源なのです。それはあまりにも微細、微細と形容することさえできない、内に隠れた状態なので、物理学では解明出来ないかもしれません。想念もエネルギーの一形態なのですが、それがあまりにも微細であるために、今日の物理学では計測することができません。
私たちは想念エネルギーの基盤を「存在」の状態と呼んでいます。
したがって、私たちがいう「存在」と物理学者が解明しようとしている「絶対」・・・、「存在」と「絶対」、これは同義語ということになります。
人類が、この被造界の究極の基盤である絶対エネルギーについての知識を手に入れたならば、地上の文明はこれまで想像だにしなかった栄光を迎えることになるでしょう。
将来の物理学者たちが、科学の究極の研究領域は「存在・絶対」であると宣言するまでにどれだけ時間がかかるかは分かりませんが、人間は、その実存の真実を直接体験することができないような状態にいつまでもとどまっていてはなりません。この「存在・絶対」こそが生命の基盤であり、これを実現すること、すなわち体験し活用することによって生命のあらゆる面を栄光化することができるからです。
※「存在」を直に体験するための技術、それが「超越瞑想」です。
「存在」とは何か?
それは相対生命の本質的要素であり、あらゆるものはこの純粋「存在」の現れです。
この内に隠れた唯一永遠の絶対「存在」が自らを外側に現して、宇宙万物、さまざまな生物や物質となるのです。
「存在」--被造界の究極的真実
「存在」とは「実存」であり「生命」です。
「存在」とは、「実存」そのもの、「生命」そのものです。
実存、生命、あるいは「存在」は、実存するもの、生かされ在るものすべてのものの内に隠れた真実です。
かつて在り、いま在り、未来に在るすべてのものの究極的な真実です。
それは永遠無限です。
それは、すべての現象的な実存の基盤です。
それは、時間、空間、因果律の源です。
それは、万物に浸透している全能なる創造的知性の源であり、創造的知性そのものです。
我はその永遠なる「存在」であり、汝もまた「それ」であり、これすべてが本質においてその永遠なる「存在」であるのです。
体験をとおして、宇宙万物の究極的で本質的要素は「存在」であると知ることによって、あなたという生命は絶対的な地位へと近づいて、宇宙の全体には安定性と永遠性が高まるのです。
被造界の究極的な真実は「存在」であると体験し知ることによって、あなたのエネルギーや知性、創造性は無限の価値にまで高まるのです。
体験から明らかなことですが、「存在」は至福意識です。
「それ」は全能なる創造的知性であり、あらゆる知性の源です。
「それ」はあらゆる力の源です。
「それ」は自然界すべての源であり、自然の諸法則の源です。
「存在」という生命の基盤、絶対の至福意識を知らなければ、人生は基盤のない建物と同じです。「存在」という基盤に目覚めていなければ、人生は波にもてあそばれ漂い続ける船のようです。風にあちこちとあてもなく飛ばされる秋の落ち葉のようです。
「存在」はあなたという命の基盤であり、人生に意味を与え、人生を実りあるものにします。「存在」は生ける「神」であり生命の真実です。それは永遠の真理です。それは永遠に自由な「絶対なるもの」です。
「存在」ーーその偏在性
被造界の根本要素である「存在」は、至るところに、あらゆる状況のすべてのものに浸透しています。「それ」を知って理解している人たち、「それ」を感じている人たち、「それ」を生きている人たちにとって、「存在」は偏在する「神」であります。
宇宙万物は意識の場が様々な形態や現象となって現れたものであるということもできます。意識とは「存在」からの放射です。例えば、電流が電球の中を流れると、光線が放射されます。光線が光源から遠ざかるにつれて光線の強さはしだいに減少していき、最後には光がなくなったと見なすことができる点に達します。同様に「存在」という尽きることのない電池から至福意識が放射されており、その源から遠ざかるにつれてその強さは減少していきます。このように、至福意識は生命の形が微細であろうと粗大であろうと、すべての中にあるのです。
感情や理性が洗練されていない人たちや、粗大なものに目を引かれている人たちは、生命の表面的な価値だけを見ます。その様な人たちは、物質やエネルギーの表面的な性質にしか気づいていません。「存在」は物質やエネルギー、理性や個性などの、さまざまな形態や現象の表面的な層を越えて、どこにでもあるのです。「存在」は超越的です。「それ」は宇宙万物の最も微細な領域を越えたところにあります。微小、微細を越えると無限になります。
「存在」の純真無垢で、全能、偏在の本質は、人間の中にも、自我、理知、心、五感、肉体の基盤として、環境の基盤として存在しています。「それ」は宇宙万物の根底にあるのですが、外にはっきり現れていません。ちょうど実際の仕事の場に姿を見せない、強力な実業家のようです。「存在」もあらゆる人と物の中心にある静かな部屋に住み、万物に影響を与えています。「それ」が隠れているのは「存在」の偏在性がそうさせているのです。「存在」に宇宙万物の「主宰者」としての地位を与えているのは、この偏在性なのです。
宇宙万物の「主宰者」は、親切にも一人一人の心の中に住んでおり、だれも苦しむことのないように見守っています。無限の愛の流れと、各人の幸福と進化を維持するために、偏在する宇宙の「主宰者」は、親切にも万物の中にその本質として内在しているのです。だれしも、自分を「彼」から引き離すことはできません。「存在」の偏在性こそが永遠の生命の本質なのです。