TM(超越瞑想)という瞑想のやり方はとてもシンプルです。初めて行うときからまったく楽に取り組むことができます。そして、自分自身の心の奥深い領域を体験します。多くの方は、数か月間、数年間など一定期間TMの練習を重ねたのちに、ようやく心の深い部分を体験できるようになるのだろう、と思われるようです。
実際にこの瞑想をやってみるとわかるのですが、TMという手法においては、瞑想中に心の深みへと入って行くために練習や訓練を重ねる必要はまったくありません。必要なのはテクニックだけ、テクニックを正しく行うことだけであることがわかります。そして、そのテクニックがたいへん簡単なのです。
TMの最中には集中も忍耐も要りません。おそらく他のどんなことよりもTMは簡単にできるのではないでしょうか?
TMという手法でなぜこのように簡単に心の内深くへと入って行くことができるのでしょう?これに関するマハリシ・マヘーシュ・ヨーギーの解説をご紹介します。
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「超越瞑想が簡単なのはどうしてでしょうか?
私はいつもそれが簡単であることを強調しているので、そのような質問が生じます。生命の内側と外側についてのこの教えは新しいものではありません。神聖な御国は内側にあるというあの古い教えと同じです。「まず天の御国を求めなさい。そうすれば他のすべては添えて与えられるであろう」という何世紀も前からの古い教えと同じです。ただ今日の教えでは、誰にとっても容易であるということが強調されているだけです。
人間として生まれたのであれば、例外なくだれでもみな自分に属するすべての栄光、内側の世界のすべての栄光と外側の世界のすべての栄光を楽しむ当然の権利を持っています。
そしてここに、誰もが自分でそれを直接的に経験できる方法があるのです。
それが簡単である理由は、私たちにはより大きな幸福の場へ行こうとする、とても自然な傾向が備わっているということです。より大きな幸福の場へ行くように訓練を受ける必要はありません。
一つのラジオから音楽を聴いているとき、別のラジオからもっと魅力的な音楽が聞こえてきたとしましょう。最初のラジオを聴くのをやめて、もっと美しいメロディーを聴くための訓練は必要ありません。訓練の問題が生じる前に、あなたはもうすでに楽しんでいるはずです。
心が内側の神聖な御国を楽しみ始めるために、訓練はまったく必要ありません。なぜなら心の傾向自体がより大きな幸福を求めているからです。池の中の魚に水を飲ませる訓練をする必要はありません。魚はのどが乾いたら口を開ければよいのです。そのくらい簡単なことなのです。
私がこのように言うとき、決して誇張しているわけではありません。私は世界中の数多くの人たちの体験に基づいて話しています。
これは常識に基づいた話です。心はもっと楽しみたいと思っており、大きな喜びがそこにあります。それを楽しむために長い間待たなくてはならない理由がどこにあるでしょうか?ただ楽しみ始めればよいのです。ただ楽しみ始めるだけです。常識的に考えて、それが難しいはずはありません。どうしてそんなことがあるでしょうか?もしそれが神聖な御国、大きな幸福であるのなら、そしてもしそれが私たちの内側にあるのなら、私たちはそれを外側に探そうとする必要はありません。
内側の「真我」とは何でしょうか?
みなさんはすでに「それ」であるのです。ただ見始めてください。のどの渇きを感じるのなら、水を飲み始めてください。練習の必要はありません。待っている必要はありません。苦しみは必要ありません。これらのどれも必要ありません。
「人生は苦闘である」とは生きる方法を知らない人たちが言ったことです。
始めに神聖な御国を求めさえすればよいのです。そうすれば他のすべてが皆さんのもとに与えられるでしょう。人生でまず第一になすべきこと、一日の中でまず第一になすべきことは、「真我」を体験することです。」
マハリシ・マヘーシュ・ヨーギー 1960年4月 ロンドン